アニメが好きなのはアニメに自己投影して自分が救われたいんだって気付いた話

私は高校生くらいからアニメが好きであった。そこから波はあるけど、アニメを見続けてきた。ちなみに私が好きなジャンルは王道の青春ラブコメ。最近では異世界転生ものが流行っていたりするけど、私は王道が好き。そして、今まで正直に言うと自分からこれが好き!って言える趣味がなかった。どういうことかというと、周りが好きだから自分も好きになったり、話題を作るために趣味にしたりして、自分という人間がよくわからないと言われたことがある。確かに思い返すと、小学校から中学校、高校と周りと同じようなことを求めらていたし、中学生くらいまではゲームが趣味と周りと同じ、高校生は2年生くらいから勉強につぎ込んでいたから休日ってあったっけ?という感じである。大学で趣味に時間が使えると思ったら、大学4年生の授業がない時期になると、時間が悠久に感じると言いだして本を読むか、1時間無心で寿司打を打つか、アニメ・YouTubeを見ているか、そういった具合だった。日々できる趣味がない。アニメも好きなものがあれば見るけど、というまだ中途半端な感じで趣味として時間を使うというところまでにはいかなかった。そんな私が周りに合わせて色々趣味らしきものを作ってきたけど、心の底から「私はこれが好き!」と言えるものがない。そこで、自分の趣味開発の一環でアニメを趣味としてやっていこうと思った。元々好きなジャンルもあるし、ここならどこか趣味にできる気がしていた。

アニメと言えば、アニメ以外にも原作のコミックや周辺グッズを集めることから始めた。これは義務感というよりはこれを始めたのが2023年中だから、今も言えるけど、好きなアニメが複数ある。そのキャラクターをアニメを見ていなくても目に入って思い出せてすこし幸せな気持ちになれるなら、それはとても良いことだろうと思った。なので、色々集めたしアニメの展示会にも行った、今度はアニメライブにも行く。そのためにアニメの復習をしたり通勤の車中はアニメライブで流れるであろうアニソンを流して予習しているのである。それ自体は確かに楽しい。だから続けられるし後悔がない。グッズは最近増えてきてしまったけど、一つ一つに良い感情があると思う。ちなみに先日友人に「もう立派なアニオタだよ」と言われてしまった。最近、アニメの社会的地位は向上していると思う。(そうあってほしい。)昔から国民的アニメは複数あったけど、アニメらしいアニメが世の中から認知されたりするのは昔のチェック柄にシャツインのオタクから徐々に層が変わって言っている証左ではないかと思う。そう思いたい。(すくなくとも私はそういう昔のオタクを脱出していると思っている!)

それで、アニメ好きで少し考えを巡らせてみた。アニメが好き、特に私はセカンドヒロインに感情を寄せる傾向にある。ちょっといい感じになるけど、最後はやっぱりメインヒロインと結ばれて切ないサブヒロイン、そういうキャラクターがそのアニメでは推しになっていたりする。なんならゲームが出ている場合ではもちろんそのサブキャラが報われるルートがあるので真っ先に攻略したりする。ふと、なんでサブキャラなのかなぁ。例えば、自分に自信が持てずに苦しんでいたけどちょっとずつ成長していって主人公に恋心を抱いてその思いは誰にもまけないよっていうサブキャラ、はたまた自分を助けてくれた主人公になんとなく好意を抱いて、それが主人公と関わる中でどんどん高まっていくけど、結ばれるのは自分じゃないってなんとなく分かっていてそれでも明るく振舞って最後まで良いキャラを演じるサブヒロイン。最近ではラノベで今までのキャラでサブというポジションの人に焦点を当てたものも登場しているようだが、サブヒロインがわかった時点で報われないのはほぼ確定しているのである。

サブヒロインと私がどこか似ている気がする。人生考えてみると、本当の場面で選ばれないということはよくあった。例えば恋愛、学生時代の恋愛事情については非常に芳しくないが、中学生の時に3年間片思いしていた人がいるけど、見事に卒業式で散った。大人になって遠方の地に住んでいる人に密かに想いを寄せていたが、その表現方法がまだ若かったこともあり、お菓子とかそういうものばかりだったが貢という形に収まってしまった。あとは便利屋として使われてしまったりしてしまった。そしてそれは終わらすことすら許されずに終わった。これが私、想いはあるけどいつも大体幸せになれない。結果として、そういう幸福を得られない。人生なんてなおさらハードゲームなのに、さらに精神疾患というハンデを負っているので、なおさらスーパーハードモードになっていて、報われない。それまでの努力とかが一度否定されてしまったから。

アニメだから、最後はサブヒロインも円満に終わっていくのが定石だと思うが、やっぱり肩入れしてしまうのはそういう自分の背景を、選ばれなかった、幸せになれなかったっていう想いを重ねているのではないかと思う。自分と似た境遇の人に想いを重ねる。アニメに自己投影していると思う。そしてゲームとかでサブヒロインが報われるモードをコンプリートすることで自分が疑似的にでも救われたいと思っているのだろう。そういう登場人物が救われる場面を見て、自分が救われたと思いたい。私はそうだ、救われたいのだ。好きなアニメのセリフに「わたしを見つけてくれてありがとう。」というセリフがあった。これもまたそうなんだと思う。私はちょっとは明るくなりつつあるけど、暗い精神疾患という病の海を彷徨っている。そこは本当は暗く、辛く、悲しく、冷たい水の中。その中から私を見つけて欲しい。見つけ出してほしい。そう本音では思っているのだ。もちろん、現実問題としてそんなこと言っててもいつまで経っても人に見つけられることなんてないから、自分から探しにいかないといけないが、それは今は休止中(執筆現在)。すごく他力本願だなって思うが、誰か、私を見つけて、救ってほしい、こんなに苦しいんだ、共感してほしい、光をさしてください…

アニメだけじゃなくてリアルでもそれをやっていた。塾で生徒を助けていくたびに、なんとなく昔の自分を自己投影して、助けていく。そうするとその瞬間は少し救われた気がする。自己投影している人が少し元気になるから、自分も少し元気になる。でも、物事はそう簡単ではなくて、何日も膝を詰めて話し合ってやっと光が差してきたりすることだってあるし、そもそも解決できないこともあるそのたびに自分がちょっとダメージを受ける。

想いを重ねる、境遇を重ねる、過去の自分を重ねる、人でそれをやるともちろん救いたいと思って行動しているからその人からは喜ばれるが、自分が摩耗していく。アニメってそういう摩耗がないから、二次元にリアルで起こる色んなことを忘れたくて没頭する。そしてまた今日もサブヒロインを応援する。だいたいいいところまでは行くんだけどなぁ。アニメが好きな人には色々な人がいるだろう、声が好きとかイラストが好きとか、でもこういう自己投影できるものとして見ている人も実はそれなりにいるのかもしれない。そうしてその目線で見ていると、気付かされることって多いと思う。青春ラブコメだとたまにいいこというじゃんってくらいだが、哲学系アニメやアニメ映画を見ていると色々考えされされる。きっと色んな人の人生観とかそういうのが詰め込まれているのだろう。ここまで来て初めてアニメの名前を出すのだが、「新世紀エヴァンゲリオン」には、哲学系アニメとしてまたこれはサブヒロインというより主人公の碇シンジ自体に自分を重ねる。境遇というか描写から読み解くものが似ている。このアニメからは学ぶことが多い。「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」サブヒロインの由比ヶ浜結衣こそ選ばれないサブヒロイン筆頭と叫びたい。

報われない人生を今度こそは、と息巻いて日々過ごしているが、急激に何も変わらないので、まだ自己投影して疑似的に自分を救うということや境遇や感情に共感したり、はたまた、考察してみたりしながら着実にアニメライブに向けて準備をする。

症状は寛解したと思って頑張ったら身体の方に症状が出てきた話

私は、公式にはうつ病となっているが、双極性障害Ⅱ型の疑いがあり、服薬も双極性障害に寄ったものになっている。

なので、自分は双極性障害と思って動いているところはある。今回は症状が全然出ていないと思ったのに実は症状が出ていて身体症状に出てしまった話をします。

 

私は今、障害者雇用枠で働いている。もちろん障害者雇用枠の雇用形態は契約社員。なので、責任とかそういうのはないのだが、私は契約社員で終わりたいと思っていない、目標は正社員なので、この職場でいかに爪痕を残そうかと毎日思っているのである。

精神科に行く前、というか症状が悪化する前に働いていたところは新卒の総合職で働いていて色々経験させてもらったから、今いる部署に近い経験を積んでいて、PCスキルもプログラミングこそできないけど、マクロで大体できることは表現できるレベルにあるので、スキルも悪くない。だから、今の会社でも大きいプロジェクトに参加させてもらって、障害者雇用というのを感じない働き方をしている。

やっぱり色々前に働いていた会社と既視感もあって、仕事の飲み込みだったりが早いので、入社して数か月で2つの大きなプロジェクトに参加させてもらった。担当はマクロ等を利用したソフト開発とその社内向け発表資料の作成などである。今の会社に入って初めての大きい仕事だったので胸が躍った。そして、ここで俺の実力を会社に示せすことができれば、正社員へは一歩踏み込めるぞと考えていた。なので、頑張っちゃうのである。これがある意味で失敗に繋がってしまう。

会社にこまごまと相談出来る人はいたけど、マクロなどを知っている人ではないので、自分で考えて、自分で発表資料を作り込んで、結構な短納期で実現させないといけない。だから無理をした。朝6時から会社に出社し、定時過ぎまで働いたり、定時に出社して8時過ぎまで働いたり、でもその時は残業が多くて疲れると思っていたけど、それまであまり会社への貢献度を感じられなかったので、やっと会社に貢献できる仕事ができるという思いで、疲れた、という感情にふたをしてしまった。だから厳密にいえば疲れた、って認知していた。いたけど、それを上回るもっと先の利益を、正社員になるために、を目指して頑張った。正直、新卒で入った会社では残業が30時間とかは当たり前だったので、この程度の残業で疲れるのはまだまだ体が訛っているな、くらいに思ってしまった。体からのサインを無視してしまった。体は確かに疲れてるよってサインを出していた。

で、結局その無理を2か月ほどして、プロジェクトは終了し、結果も良好ですごく満足した結果だったけど、雇用の方で少し腰折れなことがあったりした。しかもプライベートの方がタイミングの悪いことにこの時期に婚活をスタートさせていたのである。婚活と言っても簡単に会いに行けるのではなく、ドアTOドアで2時間かけてまだ見ぬ知らない人に会いに行って、そうすると休日は確実につぶれる。それを1か月続けていた。つまるところ、体が本当の意味で休まる時間を作ることが出来なかったのである。婚活って言っても事前準備があるし、この人にはどんなことを聞いて…などなど疲れがたまるものである。

なので公私ともに疲れていることをやっていたので、体が休まらない。そして、その結果、なんとなく最近ちょっと胃の調子が悪いなぁと思ってたら、突然強い吐き気に襲われてごはんが食べれなくなって、身体症状に疲労やストレス、気を張ってごまかしていた感情などが現れてしまった。

結局それから2週間近く経って、空腹感は出ているけど、消化の悪いものを食べたりすると胃の調子から吐き気や胃のむかむか感につながるので、朝はお茶漬け、昼はゼリー飲料、夜はうどん、という生活をしている。体重が2週間足らずで3kg下がった。元々肥満気味なのでいいのだが、これはいい痩せ方ではない…

心療内科のほかに消化器を専門にする内科にも通っていたから、消化器の先生に相談をすると、胃酸過多もしくは逆流性食道炎がまず疑われるとのことで服薬をもらってとにかく食べれることを目標に服薬を入れて行った。その強い吐き気から休日の予定はキャンセルしたから少し体を休ませ、また、会社の方でも顔色が優れないことや固形物があまり食べれないことを心配して頂いて業務調整が入ってあまりすることもないこも重なり、症状はだいぶん良くなってはいる。けど、胃酸過多でも逆流性食道炎でもなさそう、胃のむかむかは残っているから。そうなると、機能性ディスペプシアの線が出てくる。この機能性ディスペプシアは昔は神経性胃炎とも言われていたところから想像がつくように、ストレスなどの心的症状からくる胃の不調。これを確定診断させるには胃カメラを入れる必要があるよって言われていて、今それを入れるか入れないか話しているところである。

この途中経過を心療内科の先生にお話しするとやっぱり機能性ディスペプシアが疑わしくて、疲労・ストレス→身体症状と思っていたら、疲労やストレスなどの精神症状を、双極性障害の躁的防衛で抑え込んでいたから、身体症状が強く表れるまでになったと言われた。これにはかなりショックだった。だって、自分が考えていた疲労・ストレス→身体症状、ではなくて、疲労・ストレス→精神症状→身体症状ということになってしまう。ちなみに、躁的防衛とは、ストレスなどのネガティブな感情にふたをして明るく振舞うということである。これを私の事例に当てはめると確かに疲れたとか、やっぱり知らない人と会うのはストレスだし、時間も労力も結構かかるなぁ、しんどいなぁと思っていたけど、いやいや、自分は「普通の人」になってきたから大丈夫だ。なんて思ったりしていた。「普通の人」になりたくて、周りと同じようになりたくて、体の悲鳴に躁的な防衛をもちろん無意識に発動させてしまった。精神症状があったことがショックだったのはやっぱり、病院に行っているけど自分なら大丈夫だ、と思っていたフシがあったから。

だから、まだやっぱり「病人」であり、やっぱり「精神障害者」(手帳を持っているから)というところを忘れてはいけないということかと思った。精神系の病気は治る治らないの線引きってとても難しいと思った。そして、やっぱりそこをちゃんと認識して体をいたわってあげないと、現に食べたいものが食べれない制約が精神系疾患の制約と追加で加わってしまっては全く笑えない。精神疾患から脱却したい、脱却したところを自分で自分に自信を持たせたいから、頑張ったけど、まだその自信を持つのは先になりそう。だから今回の結果になってすごい悔しかった。まだ自分は精神疾患を抱えたままなんだって(処方がほぼマックスで出てるのに)私は頑張れないのか…と思ってしまった。

でも、今回の出来事は悪いことが全部ということではなくていいことももちろんあった。プロジェクトを完遂させたり、高評価を得たり、婚活の方はお察しのところはあるが…

精神疾患を持ってる人が活躍できないと言いたいわけではない。自分の体調と本当に向き合って「無理」をしない。「普通の人」に早急になろうとしない。まずは改めて「ありのままの自分で大丈夫」と自分で本音としてそれを言ってあげれる、そんなことが大切と思った経験。悔しいけど、また学んで、そしておそらく私の性格からすると忘れることも結構ある、そしてそのたびにまた思い出してちょっとだけ変わってゆく、そんなお話。無理をしたことは今に始まったことではない。だからちょっとずつ頑張るやり方、方向性、そして頑張っていいのかを見極めることをやっていかないといけなし、おそらく精神系疾患を持っている人がやらないといけないことなのだと思う。ちょっと調子がいいからと言って、あまりやりすぎると、痛い目みるから、主治医の先生など信頼できる人と話しながらゆっくりやる、というところと、頑張りたい人は頑張る、という感情と上手く折り合いをつける。そんなことだと思う。

うつ病で休職中に中島みゆきに励まされた話

うつ病で休職する。世間から見れば、遊んでいるのか、はたまた辛い想いをしているのか、はたまたどうだろう。休職すると、確かに気分は落ち込んでいてでも楽しいことはできるんじゃない、これくらいに思われるのもあると思う。私は、少なくとも私の場合は違う、と言える。休職中に遊べる?冗談じゃない。そんなことできっこない。やったら痛い目にあう、そんな休職期間、うつ病の急性期を過ごしていたとき、本が読めなくなった、文章の意味がわからない、文字が浮いて見えてまるで頭に入ってこない。どこかに行くのは、人が多いと後ろ指をさされている気分、コロナが流行っていた時だから、コロナになったらあいつは休んでいるのにコロナになるなんて、と会社の人に言われそうで、怖い、外に出られない。最終的に15分の散歩でばててしまうレベルまで落ち込んでいった。もちろん休職なので賃金は満足にはもらえない。確かにもらえるだけマシであるので文句を言ってはいけない。しかし、好きなことをやる原資がない。よって何もすることのないそんな休職期間で、消極的にでもできた事、それはYouTubeを見ることと、音楽を聴くこと。

YouTubeを見ると言っても、四六時中何もできずにパソコンの前に座っていたらいつの間にか見るものなんてなくなる。そもそも内容が入ってきているような入っていないような感じだし、過激な内容は苦手なので、見るものは必然と限られる。見てみたいと思っていた動画はすぐ見終わった。結局24時間ライブをしている「ウェザーニュースLiive」というものにはまった。朝5時から夜23時までキャスターさんが出演してお天気を教えてくれる、面白要素もある。急性期の私は悪夢を見るのが怖くて朝4時には起きていた。だから、5時から人が出てきて変化があるウェザーニュースに救われた。私のモノトーンな生活にちょっとした変化を与えてくれた。

そしてもう一つ、この話の中心となる中島みゆきに励まされたのである。本当は呼び捨てなんて畏れ多い。私は小学校4年生のころから中島みゆきが好きだ。きっかけはとある授業でプロジェクトXを見た、内容はホテルニュージャパンの火災対応、でもその内容より、主題歌の「地上の星」に魅了された。こんなに強い歌声で歌う人がいるのか、と驚いた。そしてたまたま両親が中島みゆきのCDを少し持っていたので、聴いてみた。そうしたら、その独自の世界観に魅了されに引き込まれた。小学生にしながら中島みゆきのCDを集めるをことを始めた。知り合いと塾に行くときにも持ち運べるCDプレイヤーを買って知り合いそっちのけで楽曲を聴いていた。知り合いは呆れ気味に「何聴いているの?」と尋ねてきた。「中島みゆき35thアルバムの ”I Love you 答えてくれ"だよ」と答えてもよくわからないといった感じであった。そりゃそうだ、小学生から中島みゆきを聴いている人が世の中に一体どれくらいいるのだろう。

それから中学校、高校、大学、社会人と中島みゆきの楽曲と思い出がリンクしている。全体で700曲以上(CD化されていない楽曲も含めると1000曲)あるので、大体よく聞く曲がそれぞれの時代ごとにある。

私は中島みゆきの歌は前期・中期・後期と分けられると思っている。前期はどちらかというと暗めな歌が多くて、人生の闇な部分を歌い上げていたり、悲しみが主体となっている感じがある、恋ともいえるかもしれない。失恋曲の女王と呼ばれるのはこの時期のイメージなのだろう。中期は、少し明るくなって愛とか、生きるとかそういうのがテーマとして多い印象がある。そして後期は、生きろ!ここに収縮されるような気がする。

そしてうつ病で休職時、一人悲しく、なんでこうなってしまったのか、大学を主席で卒業して東証一部(当時)上場企業の総合職として就職できた過去の栄光と、うつ病と診断されて何もできなくなった今の自分の差を受け入れられなくて、もう色んなネガティブな感情が巡ってどうしようもなく泣きながら家の隅で壁に身を預けながら止まらない思考をめぐらせていた時、そっと寄り添ってくれたのが中島みゆきの楽曲なのだろうと思う。分類としては前期の曲がすごくフィットした。具体名でいうと「誰のせいでもない雨が」「時は流れて」「成人時代」このあたりの曲。聴いていると安心はさすがにできない、安らぎとかはその時は到底無理。でも、自分の心情の波形と楽曲のテンポとかそういう波形がマッチしていたと思う。心がボロボロでどうしようもなくて苦しかったあの時に、聞く曲がある、とても救われる、しかも心情の波形とマッチするならなおさら。

休職期間中に中島みゆきの全歌集という今までのリリースされた歌詞が詩の形式で記載されている書籍があることを知った。調べたら近くの本屋で売っているとわかったので買いに行った。上で書いたが、本は読めなくなっていたが、この全歌集は数ページ進んでちょっと休憩を繰り返せば読めることがわかった。今まで聴覚情報でしか曲のイメージを構成していなかったが言語情報で、ここのフレーズはこういう言葉を漢字を使っていたのか、とか、そういう補足情報を与えてくれた。だからもっと知りたい、もっと先に進みたいと想えた。ちょっとずつ日々読む量は増えて行った。それでも、字がびっしりと書かれた小説本は読めなかったけど、本というものを読めるという事実は私に自信を与えてくれた。

だから、私は2つの点で救われたと思う。昔から知っていて好きなアーティストがうつという心情的に不安定だったりするときにその波形にマッチしていたものをリリースしていてくれたこと。正直、こうなる前は前期の歌はちょっと暗いし、入りが地上の星という力強い曲なので、ちょっとイメージが違うかなぁと思ってあまり聞いていなかった。ふとした時に聞いてみたら波長ぴったり。辛い時に音楽という彩を与えてくれた。辛い時は世界が単一色しかないくらいイメージになってしまう。中島みゆきの前期楽曲自体が明るいとは言えないけど、こういう時に明るい歌は心がしんどくなってしまうので、ちょうどいい塩梅なのだと思う。そして2点目は、読書好きだった私から読書ができなくなるというショックで自信喪失なエピソードからちょっと内容は軽いけど本は読めるようになった!と自信を与えてくれたこと。

うつ病の急性期はとにかく辛い。なんでこんなに辛い想いをしなくちゃいけないんだって思うくらい辛い。自分を責める、自分が責められると思う。当事者でいると辛いけど、その辛さってメタ認知的に見えなくて辛い感情の渦に飲まれる。飲み込まれる。そして這い上がってこれない。そういう時に何もないのと聴けると思える歌があること、そういうのには励まされたなと思う。

精神障害者と普通の人のはざまで

普通に生きる。朝、電車に乗り、あるいは、車に乗り、どこかにショッピングに行き、映画を見て、一日の終わりに普通に眠る。普通の生活。どこにでもある生活。当たり前の生活。その生活は一度壊され、リビルドしてもなお漂流し続ける。脆いもの。精神疾患と普通の人のはざまで思うこと。

 

私は、精神疾患うつ病双極性障害Ⅱ型疑いあり、の、ADHDの併発の疑いありの、はっきりしない、疾患を持っていて、精神障害者保健福祉手帳を持っているので、行政の制度上は障害者ということになる。しかも悪いことに疾病がアイデンティティ化している。

気分が落ち込んだりし始めたのをはっきり認識したのは、高校3年生。大学受験でのこと。成績が全く上がらず、毎日泣いていた。このまま落ちるんじゃないかって、本当のそう思えて、それがリアルに感じて、だから泣いていた。だから高校3年生の特に夏は全然勉強が手につかなかった。泣いてたら勉強はできないから。でもそれは成績が上がると同時になくなっていって、次に現れたのは大学4年生、住んでいた賃貸住宅の部屋の壁を気づつけ、ドアに穴をあけ、フローリングを傷つけまくって、それを認識した時に、これ原状回復いくらになるんだろう、払えるのかって怖くなって、それが頭から離れなくなって、どこに行ってもその不安が頭を常に支配する。怖い、その時は大学の学生相談所に行って臨床心理士の先生にカウンセリングしてもらって乗り切った。結局、原状回復費はかからなかったから、壮大な杞憂だった。

でもこの時、別にそういったところを友人に見せるとか、本気で相談するとかそんなことは全くなかった。さすがに泣いているのは感づかれたかもしれないけど、普通に朝起きて学校に行って、大学に行っていた。普通の高校生・大学生だった。

そして、訪れるターニングポイントの社会人1年目、総合職で入社した会社でお客さんのクレーム処理係になった。日々お客さんから怒られ詰られ怒鳴られた。結局数か月でまた涙が出てきた。でも大人になってたからお酒に逃げた。仕事終わりはビールをロング缶2本は最低でも飲み、休みの日は昼間からビールをまたロング缶2本飲んで、夜はもっとお酒を飲んだ。でもお酒を飲んでも、クレーム処理の苦しさ悲しさ辛さから逃げることができなかった。できなかったから、当時住んでいた3階の窓から地面を眺めていた。このまま外に飛び降りれば、三階だから死ななくても明日仕事に行かなくていいのかな、って本気で思っていた。当時の頭の中では、窓や壁という一枚の物体を超えるだけで少しの安寧が待っている、だからぐずついていないで、乗り越えてしまえばいいんだって声が離れなくて、外を眺めて完全に思考が止まっていた。タバコにも手を出した。でも何かストレスが解消されることはなくてただむなしかった。会社を辞めようと思っていた。本当に数か月しかいないことになっちゃうけど、それでも辞めるしかないと思った。幸いにも実は行く先はある程度目星がついていた。でも、そう思った矢先、クレーム処理からは離れることになった。だから、こういった症状は徐々に軽くなった。お酒を飲んでないとやってられないって思考から徐々に解放されたけど、完全にはよくならなくて、なんか辛いと思う日々も続いた。

でも、この時も朝起きて会社に行って帰ってきていた。夜は眠れなくなっていたけど、それでも会社を休むことなく行き続けていた。通勤、普通の社会人がする毎日のルーティーン。行くのが辛い日もあった。でもちゃんと会社に行ってたから、普通に生きていた。

さらに分岐点、会社の異動を期に、ストレスというかうつ状態が急速に悪化して、つぶれてしまった。もう会社に行けない、このままじゃヤバいと思って、たまたま電話した精神科の初診の枠が本当に奇跡的に開いていたからそこに駆け込んで、ここで初めて自分の生きていて辛かった、このもやもやに名前が付いた。反復性のうつ病。これが答えだった、当時はそう思っていた。落ち込みが激しいとかそういう症状が出てから9年の月日が流れていた。ずっと答えを探していた。自分ではうつ病ってじゃないのかなってなんとなく分かっていたけど、でも本当にそうなのかわからなくて、なんか精神疾患というとイメージもあんまりわかなくて、でも、その戸惑いと辛いことの答えがわかった、「反復性のうつ病」そのラベルというか病名に救われた感じが自分の心を支配していた。

だから会社は休んだ。会社が明らかに原因のうつ状態なのに、会社を休むことをすごく怖いというか、悩んでいた。そもそもうつ病という診断が下ってから次に出勤したときに上司にそのことを告げるのに時間がかかった。言うべきか、言わざるべきか、本当に悩んでいた。でも夕方になってやっとの思いで伝えることが出来た。とりあえず2週間くらい休むことになった。でも、その時にもっと数か月単位で休んだ方がいいって先生から言われていて、それに対してすごく悩んでいた。会社に行くのはすごく嫌だし、行くだけで過呼吸とか涙とか出てくるのに、休むというとなんかすごい後ろめたいと思ってしまった。心は正直固まっていたけど、でもそれを決断することが出来なかった。最後は先生の強い勧めで休むことにした。

 

休んだはいいものの、ここにきて初めて普通が普通でなくなっていった。眠れない。外に出るのが怖い、幻聴、思いつめる心、通院で週に1回病院に行くだけで精一杯。それ以上は無理。でも世の中の人は、休んでるのをさぼってるのと同義だとしている人もいた。あるいは休んでいるから何か出来るでしょ、リスキリングとか。と言われることもあった。頑張って明るい声を出しているのに、思ったより元気じゃんとか言われることもあった。しかし、何もできない。好きだった本を読むことも出来なくなった。そんな私にそういった言葉の数々は刺さるものがあった。

 

この時はきっと精神疾患だったと思う。中身はどうであれ普通にできていたことの数々が、普通の数々ができなくなっていたから。精神疾患の定義は幅広い。国際的な診断基準である米国精神医学会がまとめたDSMやWHOが疾病の統計、分類のために作ったICDなどの病気に当てはまればきっと精神疾患だと、医学上は定義されるのであろう。しかし、実生活においては、おそらく社会人一年目のクレーム処理の数々の時から精神疾患を患っていたと推測される(と先生に言われた)。もっと言えばきっと高校生の時からその感じはあったんじゃないかなって思う。

 

その後。会社に復帰してその会社を辞めて職を少し点々として引っ越しをして、その中で治療方針が変わり、服薬も変わり、と色々繰り返してきた。うつ病だと思ったのが結局は双極性かもしれないという疑念はこの診療方針が変わってきたところにある。うつ病の治療を進めていてもどうもよくならない、それは反復性のうつ病だからと思っていたら、どうも調子のいい日もあってそういう日に限って大きな買い物をしてしまったり、頑張りすぎてしまったり、でもこれは調子のいい日のただの出来事だと思っていた。それを先生に伝えていったら、どうも双極性障害のⅡ型っぽいという感じになった。でも確定診断に至る確信がないのもまた私も感じていた。だからなにかしら精神疾患は持っているけどうつ病かもしれないし、双極性障害かもしれないし、ということなのである。これは疾病がアイデンティティ化している私にとってとっても大事なことである。頭では疾病は大切ではなく、今の自分に合った適切な治療だとわかっている、そんなことは分かっているけど、でも自分は精神疾患と共に生きてきた、と思う。ともすれば、それに名前を付けてラベリングをしたいと思うのもまた私という人間の性なのだろうと思う。

 

会社を転々とはするけど、働いている。精神疾患を持ちながら、普通に、あるいは多少の配慮を得ながら働いている。朝起きて会社に行って夜帰ってきてご飯を食べて寝る。みんながしている生活。でも、生活していく中で「精神障碍者保健福祉手帳」の交付を受けた。様々なメリットが得られるからだ。これを取得するということは、すなわち、制度上だとしても「障害者」を受け入れるということ。精神障害者だと、外見では障害を持っている人として見られないから、普通の人との違いがわかりにくい。ある時は普通の人にもなるし、ある時は精神障害者にもなる。症状が一番悪化していた休職期間中も買い物をしていた、それを外の人から見ると、普通の人。でも自分の頭の中では色んな思考が巡っていてそれが実際ショートしてしまう。それもで、外の人から見えば普通の人、思ったより元気な人、普通の社会生活を送る人。では「普通」って何なのか。人と会話出来て、買い物ができて、車の運転ができる・・・。普通の定義って難しい。年々精神障害を持つ人に対する偏見が減っていき、理解が増えている、気がする。重度の精神障害で動けないような人ではない限り、時に普通の人にも見える。その境目があいまいで焼け落ちていく。それで気付くと自分にとって精神障害者であることが普通であるけど、でも普通の人だって思うときもある。

 

ある精神疾患を持ったコミュニティーに所属している。でもそこで見る人は街中ですれ違っても少なくとも精神疾患を持っている人だとは気づかないだろう。(精神疾患を持つ=精神障害者である、は決してない)でも細かく見ていくとやっぱり傷ついた人たちの集まりだなって思うときがある。傷ついた人たちが集まって、いろんなことを知っていく、時に成長したり、あるいは失敗することもある。でもちょっとずつ良い方向に変わっていく人だっている。

 

精神疾患精神障害は数値で表すことが出来ない。何か医学的に数値化されるものがない。だからこそ、そこがあいまいになってよくわからなくなっていく。「普通の人」にとって「障害者」とラベリングされることに抵抗感を持つだろう。「精神障害者」としての私が普通の人か精神障害者かわからない時がある。当時は色々なことを思って精神障害者になったが今となってはそれも当たり前のものととして受け入れている。むしろ利用している。それは今まで被った様々な不経済なことを少しでも穴埋めできればと思っているからこそである。ある意味ではちょっと良くなったのかもしれない、でもまだ様々な支援をしてもらう資源がないと生きていくのは難しい。精神障害と普通の人を行ったり来たりして生きている。最初はなんだかんだ提示するのが恥ずかしかった障害者手帳も今ではちょっと抵抗はあるけど、提示することが出来る。きっと自分の中の「普通」に障害を持つ自分が入り込んでいる。今まではどちらかというと、精神障害とか精神疾患が普通に寄ってきたと思っていた、でも別の見方をすると、自分の中の普通が精神障害に寄ってきたのかもしれない。

 

自分の中の普通と、いろんな人の普通って絶対に違う。同じインプットをしても同じアウトプットにならないように、いろんな人が色んなことを思って生きている。例えば、休職している時に色々な言葉を無慈悲にかけてきた人たちにもそれなりの矜持や意図を持っている。それらを一般化してなんとなく出来ているのが世間一般でいう普通に生きることなのかもしれない。必ずギャップがある。ギャップで苦しむ。理解が進んでも決して世間の多くの人から精神障害は良いようには見られない、と思っている。だから時々落ち込んで精神障害者にもなるし、普通の人にもなりたいと思っている自分がいる。普通じゃないと世間ではなかなか受け入れてくれないから。でもそれを自分で演じるのは正直疲れる。こうしてなんだかわかったようなわからないような論理を展開している中で、結局障害者と普通の人のはざまで悩んでいるというより、そうして悩むことで世間に、自分の外の世界に、置いてけぼりをされるのが怖いんじゃないかなって思う。はざまで生きていたい。それはとても都合の良いことかもしれない、でも確かに辛いことはたくさんあるから一概に「ずるい」と言えないと思っている。そういいながら、「こういうのずるいよな」、って自分もいる。世間にいろんな普通があるように自分にも複数の自分や普通を持っていたりする。だからこそ思考は難しくなる。一概には言えなくなる。

 

色んな自分がいて色んな普通や常識や思いがあって、それが世間とは違っていてそれでも、自分は、それでもいいとは、言い切れないから、障害者と普通の人のはざまで今日も彷徨い続ける。

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート8ー完ー

前回は、異動先が前いた部署ではなく、うつ病の発症原因である顧客対応をする部署に異動になったところまで話をしました。今回は、そこで何が起きたか、話していこうと思います。

 

顧客対応をする部署、これは相当重たい、けど決まった以上行くしかないと思った。社会人1年目と比べて、やや件数は落ちているが、あまり人もいないところだったので、しゃかりきと働く必要があった。その部署にいたのは、上司1名(上司の上司はいない)に正社員が1名、フルタイムのパートさんが1名、短時間パートさんが1名、そして私の5名という布陣で、正社員の1名はあまり仕事ができるタイプではないため、フルタイムのパートさんが色々取り仕切っていたし、私もこのパートさんのいうことを聞いていたわけで、そもそも顧客対応の部署の経験なんてちょっとしかないので、仕方なかった。このフルタイムのパートさんがまた、色々急かす人で、ちょっとでも何かしてなかったら何かするように求めてきたし、今まで違う畑でキャリアを積んできたので、勝手が違うことを何度も説いていた。これはひょっとしてちょっとまずいところに来たのではないか…?と思ってしまった。

 

さて、業務スタートをして数週間、なんとか乗り切ることができたが、自分の心を完全にへし折ることがあった。ある一般消費者の対応であって、90分以上も電話を切らせてもらえなくて、ひたすらなじられ、怒鳴られ、人格否定され、無茶苦茶な要求をされ、断るとさらに激昂というもう手に負えない状態であった。傷ついてやっとこさ戻ってきた先制パンチがこれならもうたまったものではない。その日は仕事が手につかなかった。翌日上司に連絡して、「かなり厳しい状態なので、時短をさせて欲しい」と伝えた。上司からは、「仕方ないことだから、わかった」と言われた。

 

さてこの上司にはなんと配属当初、私がうつ病で休職していたとこが伝えられなくて、上司も私の口から言って初めて知って驚いていた。この会社、配慮というか、そういうの足りないよなって思ってしまった。それは色々なところに現れていたので、最低限伝えておいてくれよって思ってしまった。

 

上司に時短を連絡してすぐ、人事課長がやってきた。そこで60分くらい話をしたのだが、要約すると、「前いた部署に戻すことは不可能である。」「私のことを考えると、この際辞めたらどうだ。」ということ。どうやら上司が人事課長に相談したらしい。実は異動してすぐにもう辞めようと決心をしていたから、私からは「正直、今の部署でやっていける自信はないです。辞めたいと思います。でも転職先が見つかるまでは続けたい。」と言った。それは認められ、かくて会社公認の転職活動がスタートすることになったのである。

 

県をまたぐ異動をしてしまったので、病院を変えないといけない。そこで新しい先生にあって、相性も悪くなさそうと思った。その先生には、結構不安案とか不眠の傾向が見えて、まずい状態です、というと、「辞めるか、休職するしかない。」と言われてしまった。これ以上の休職はないな、と思ったので辞める決心をより強固にするものになった。

 

満身創痍な状態から復活し、でもどこか無理をしている自分、無理をしたときの結末も自分で回収しないといけないというのがここで出てくる。クレーム対応をした結果、1年目と同じく、心がへし折られる事案が発生し、結局辞めるしかない。だったら無理して部署から出るのではなく、辞めて転職活動をしておけばよかった。と思ってしまったし、この異動実は自己都合による異動となってしまったので、家賃補助は継続されたが、退去費、引っ越し代、新居の初期費用の一切合切自分で負担しなければならない。〆て30万以上。これは手痛いとかそういう次元を超えて、貯金がふっとんだ。

 

休んでいる期間は傷病手当金で生活をつないでいた。でも旅行したり、色々生活するとお金はかかってきてしまう。しかも悪いことに、時間が有り余ると、メルカリやアマゾンを見る時間も増える。買いたいものが増える。衝動的に買い物してしまう悪い癖がここででてしまい。事前にあった平均くらいの貯金額は見事に減っていき、そこに追い打ちをかけるかの如く、30万の出費、これはお財布に深刻なダメージを与えたのである。

 

うつ病になると、お金の心配をしないといけない。傷病手当金は、給料の標準月額の大体7割弱をもらえる制度である。これで食いつなぐか、親から援助してもらうしかない。

 

さて結局、新しく赴任した部署には3か月しかなかった。それ以上は持たなかったし、転職先が見つかったので、冬、世間はクリスマスというときに上司に辞めることを伝えた。大した成果を残すわけでもなく逃げるように去った職場。フルタイムのパートさんに色々とげのあることを言われたが、もう辞める事実は変わらない。辞めるしかない。そう信じて新卒で入った会社を辞めた。

 

そこには幾度となく出てきた過去の栄光はなく、満身創痍で顔面蒼白な私がいただけだった。これをみじめと呼ぶのであれば、みじめなのかもしれない。成れの果てと言えば成れの果てだろう。それを許容できるようになるためには時間がかなりかかるのだろう。病気と一緒で長く付き合っていかないといけないのだろう。自信満々で入った会社で自信をへし折られ、尊厳がなくなり、ズタボロになった。でもいつか、こういった人生をもろもろ含めていい経験だったって言えるように、なりたい、と思う。

 

以上が大学主席で卒業したのにうつになった話です。

ここまでお読みくださりありがとうございました。

次のネタは思慮していますが、サイドストーリーを書こうか、大学生のころを書こうか、大学受験もなかなか一波乱だったのでそれを書こうか、高校生での生徒会長の経験を書こうか迷ってます。

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート7

前回は休職延長と、服薬安定からの睡眠が安定して取れるところまでお話しました。今回はどうやってリハビリをしていったか、そこをお話していこうと思います。

 

服薬が安定して、睡眠をとれるようになった、と言っても23時就寝の朝5時までしか睡眠を維持できなかったわけであるが。朝4時とか5時に起きる生活を数か月するともうとにかく一日が漫然と過ぎていくわけである。時間が溶ける。何もしていないまま一日が無為に過ぎていく。だんだん、このままじゃいけないよなと思い、ちょっと体を動かしてみようということになった。

 

そこでまずやったのは断捨離である。先生からものの整理は心の整理だからいいことだと思うよって言われたので、特に私の場合は本が大量にあったので、ブックオフにいっぱい持って行って、貯金にしたり、初めてメルカリを使ってみた。最初はかなり抵抗があったが使ってみたら、意外となんとかなるものだなぁと思った。そして断捨離をせっせと遂行していくうちに、次のステップに進んでいいんじゃないかって話になり、散歩をするようになった。

 

うつ病の治療において軽い運動はいいことだと言われているらしいが、朝の散歩がルーティンになっていった。しかし、最初は張り切って60分、散歩をしたのだが、とにかく疲れて、そして、夜になるととてつもない不安感に襲われることが分かった。なんと60分の散歩ですらできない状況になっていた。数か月ほとんど外出せず、病院に行くだけならそれも道理であるが、これもまた自信喪失につながってしまった。しかし、治療の方が割と進んでいたから、なら次の日からはまず15分にしようということで、短い時間から始めた。それに慣れたら30分、次は45分、と厳密に時間で区切って散歩していた。散歩をしてみると色々な発見があることに気付いた。日常の些細な発見、それまでの自分では気づかなかったこと。おそらく病気にならなければ気付かなかったであろうことに気付くことが出来たりもして、ちょっと幸福度が上がった。

 

リハビリにおいて特に何かしたわけではなくて、散歩の距離をひたすらに増やしていったのと、本がある程度読めるようになっていたので、自分で本を読んでみて、色々ストレス対処の勉強をするくらいだった。

 

散歩の距離も結構増えて、数キロ歩けるようになったとき、ふと旅行に行きたいと思った。かつて旅行は趣味だった。色々迷ったが、歩行距離を考えて管理すればなんとかなるだろうと思っていってみた。ちなみに、うつ病が一番ひどいときに、2泊3日の旅行に友人3人と行ったのであるが、これが散々で、少し歩いただけでへばってしまい、友人に付いていけない。途中離脱と休憩を繰り返す始末。歩きすぎて、最終的に吊り橋の上を歩いているような感覚に陥ってしまい、ギブアップ。車で休ませてもらったりした。いよいよ旅行も出来なくなったのかという感じでまた自己嫌悪に陥る。そして旅行から帰ってから、数日は全く動けなくなってしまった。ということもあるので慎重になっていたのであるが、思い切っていってみようと、四国に行ってみた。乗り放題切符があったから4県制覇したいと意気込んでいた。コロナになったらヤバいと感じていたので、アルコールウェットティッシュを持参し電車の席やホテルの机回りを拭いたり、衣類にかける除菌スプレーを持っていき、ひたすら服にかけたり、その辺は相変わらずだったと思う。でも鉄道旅は十分満喫できた。あまり、動かず電車に揺られて車窓を眺めたり、4県制覇できたという達成感は自分の自信回復の途上で必要だったのだろう。

そして、ちょっと東京に行きたいと思った。その理由は、飛行機に乗ることが大学生の時からの趣味だったので、せっかくなら行ってみたい。それでANAユーザーなのでプレミアムクラスに久々に乗ってみたいと思った。思い立って行ってみて色々なことをして、いよいよ意欲も体力も基礎的な自信も回復してきたなという手ごたえを感じていた。

 

となると次に待っているのは復職である。これは結構色々あったのである。私の主張は一貫して、今の部署でやりきる自信はないので、前いた部署に戻してほしい。ということである。それ数々の面談を乗り越えて、とりあえず前いた県に戻ることは決まった。この面談も人事の責任者と何度も重ねたのであるが、人事の責任者からなかなか色々なことを突き付けられた。そう自分が見つめるのを嫌がっていた現実とか、そういうのを。今思うと正論なのだが、うつ病の人に正論パンチかますかねぇ…と面談の度に意気消沈した。でも、色々な関係をたぎって必要だったとしても、仕事を一切合切上司に丸投げして休職に入ったので、この部署でまた関係した方と関係構築するのは無理だと思ったし、職場環境も悪く、周りが全員敵に見えたから、もう耐えられないのは明白だった。ちなみに、保障されたのは元いた県に戻すってことだけで部署名などは明らかにならなかった。でも私はてっきり元居た部署に戻してくれるのだろうと、楽観的に思っていた。さらに条件が付いて、今いる部署でちゃんと働けることを証明しないといけないということであった。期限は1週間、まさにお勤めといった感じであった。先生や会社と色々話し合った結果、復職は秋と決まり、それに向けて準備を色々した。

 

準備と言っても、朝、仕事に行く時間に起き、会社までのルートをたどってみて、ちゃんと通えるか確認したり、そういった具合である。でも一応趣味レーションでは過呼吸も起きなかったし、大丈夫だろうと思った。

 

地獄の1週間が始まるのである。先生からは1週間くらいならなんとかなるから、元居た部署に戻してもらえるなら、そっちでゆっくり立て直した方がいいという具合であった。実際、空気は地獄だし、居場所はないし、こんなところに入れたものではないと、お昼の休憩には外に出て、戻りたくないと思った。でも、勝手知ったるかつての部署に行けるなら、それも耐えられる、それを支えにやってみた。実際、出勤もちゃんとできていたし、パソコンを見ながら過呼吸になるわけでもないので、しっかり仕事はできたのだが、どうも顔色が優れなくて、やっぱりまだ早かったかなぁとも思った。でも、ここは無理を押してでも行くしかないと割り切って、1週間走り抜けた。でも無理をするとそれはいつか自分で結末を回収する必要がある。その時の自分はそこにあまり考えが至らなかった。

 

異動先の部署は最終日に知らされた。それを聞いて愕然とした。確かに元々いた県には返してくれたのだが、なんと配属先が社会人1年目のクレーム対応をする部署への異動が命ぜられた。え、ちょっと聞いてないんですけど…と思ったが、この地獄から解き放たれるなら、とも思ったのも事実であるが、ちょっとさすがにそれってアリなのか、アリなのかぁと思ってしまった。会社には1年目に病んだという事実は知られていた。それをもってもなお、その部署に行かせる。かなりどうかな、と思ったけど、決まった以上は仕方ない、と割り切れないけど不安いっぱいで異動することになった。

 

次回は、その異動先でどういうことが待っていたのか、書こうと思います。

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート6

前回はGWまで休むことになったところまで書きました。今回は、GW明けどうなったか、書いて行こうと思います。

 

GWはひたすら考えていた。先生の言う通り休んだ方がいいが、正直決心がつかない。でも仕事に対するネガティブなイメージが増長するばかり。こんな状態で働けるのか。いや、働けないであろう。ならば休むしかない。けど、でもこんなんで休んでいいのか。という堂々巡りをしていた。

そうこうしている間にGWは明け、出社日が訪れた。その出社日、仕事に対するネガティブなイメージから、出社する途中で過呼吸で歩けなくなり、近くの自販機にふらふらでたどり着き、水を飲んで気持ちを落ち着かせる、上司が来るまでの間パソコンと向き合うが、これもまた過呼吸でそんなところではない、といった有様であった。

そして、上司とまたミーティングルームに行って、話をした。上司には、「この際、3か月休職させて頂きたく思います。」と正直に伝えた。そもそも書いたありさまなので、仕事を遂行する能力があるとは思えなかった。でも人間不思議なもので、その状況になってもなお、自分くらいの症状で休んでいいんだろうか、という心のしこりは残すのであった。また、そのほかに、「前任者との引継ぎがあいまいだったプロジェクトを担うのが負担だった。」「上司の期限が悪くて怖かった。(今思うとよく言えたものだと思うが。)」「元居た部署に戻してほしい。」ということを伝えた。上司からは、「今までの部下が、自分の仕事に関わるなという我の強いタイプが多かったから、接し方を間違えた。」などの旨の話があった。

そしてその後、人事責任者ととても偉い方との面談があった。その場では色々言われたが、結局オールドタイプで、うつ病に理解があるとはいいがたい話があって、正直疲れた徒労感で終わってしまった。

しかし、休職は実質的に認められたので、3か月の療養に入ることになった。

 

休職していたわけだが、やることといてば週に1回の通院であとは全く何もしないというのが当面の目標になった。とにかく休養するように先生から言いつけられていたからである。しかしどこかに行く気も起きないので、とにかく家にいてYouTubeをぼーっと眺めて一日を過ごすのである。

では、体調面がどうなっていったのか推移を見て行こう。休職当初は不安感や不眠が強く、どうにもならなかったのであるが、仕事から離れておな、体調は悪化の一途をだどって言った。仕事から離れることで一時的には負担から逃れてることができたが、それも一瞬で過ぎ去り、体調というものの悪化という現実を見なければいかなかった。日に日に不安感は強まり、不眠はひどくなっていった。不安感については、日中30分でも動けば、夜色々な不安感に襲われて、動けなくなる、涙が出てくる。何かにつけて、自分はなんでこうなってしまったのか、後悔、みじめさ、くやしさ、両親への申し訳なさ。もう色々な感情が入り乱れてぐちゃぐちゃになってしまった。不眠については、最終的に1時間に1回悪夢で目が覚めてしまい、結局朝4時には寝るのを断念して、起きてただひたすらにYouTubeを見ていたのである。睡眠は、23時就寝朝4時起床がしばらく続いた。そうすると日中に激しい眠気に襲われて仮眠を5回程度取っていた。日中バリバリに働いていた人が日中に30分でも運動(散歩)をすればもうエネルギー不足でかなり精神的に不安定になる。また苦しい時間を過ごしていた。

そして、集中力がなくなった。本が読めなくなったのである。文字が浮いて見える。文章が頭に入ってこない。これは相当応えた。私は読書好きで、休日に本屋に出かけては、本を数冊購入し、それを読んでいたのである。そんな読書好きだった私に、病気は読書という好物を取り上げてしまったのである。それでさらに自己嫌悪に陥って、不安へのループに入る。本を読むのにもエネルギーが必要である。だから徹底的にエネルギーが足りなかった。そしてエネルギーを補給して生活を送れるようにするために運動をしないといけないがそれも満足にできない形になっていた。

そのほか病的な話でいうと、新型コロナウイルスが流行っていた時であったので、もしこれでコロナになったら会社の人に顔向けできない、どんなことを言われるかわからない。後ろ指をさされるのが怖い。ということで、徹底的に消毒をしたのである。まず外出したら必ず手を石鹸で2回洗う。そしてシャワーを浴びて体全体を消毒する。着ていた服はすぐ洗濯機に放り込む。それだけではない、物体の表面上にコロナウイルスが付着したときの、ウイルス死滅の時間まで外から持ち込んだものは触らない。例えば、本などの紙類は1日は死滅するまでに時間がかかるから、それまで絶対に触らない。家を汚染区域と非汚染区域に分けて、非汚染区域では安心して居ることができるが、玄関やそこに近い廊下、汚染区域には絶対に近寄らず、数日に一回、クイックルワイパーで徹底除菌していた。正直今思えばかなり病的だったと思う。コロナになるという恐怖からの行動であったが、かなりやりすぎだと思う。

加えて、外出した時に不機嫌な人を見つけてしまった。不機嫌と言えば、私の上司である。色々な記憶がフラッシュバックして、過呼吸になってしまったので、外出はしばらく控えるようになった。先生からは、なんでそう思うんだろうか。全然関係ないじゃないかって伝えられたけど、でも思い出すものは思い出すので仕方ないじゃないかとも思ったりもしていた。

 

この時期には、自分の自信、大切にしていたもの、色々、へし折られて自信がなくなって、不安が一層増えるという悪循環であった。

 

服薬の方は、向精神薬が徐々に増えていき、睡眠薬を色々試してみたが、どれもあまり効果がなく、切り札の薬を処方されて、それを増強させる薬を飲んでなんとか眠れるようになったが、眠りが安定するまでに3か月かかっていた。ちなみに先生から、仮眠5回はとりすぎなので、どんなに取っても 1日3回15分までと決めたので、日中は激しい眠気と闘いながら、何をするわけでもない、座っていると寝てしまうので立ってぼーっとしていたのである。これもこれで結構応えるものであった。かと言って夜は服薬が安定するまで眠れないし…。でも日中その眠れなかった分を補うことは許されない。非常に困ったことであったが、睡眠が安定するにつれて、日中の眠気は解消されていくわけであるが。

 

3か月と言えば当初の休職期間である。3か月経ってやっと睡眠が安定してきたか、してないか、不安も強く、日中の活動もあまりできてない。そんな状態で復職できるわけもなく、さらに3か月休職期間が増えることになった。当時さらに困ったことに、不安でどうしようもないときに水を飲みまくる。心因性多飲症(いわるる水中毒)というのを患っていて、一日5L以上の水を飲んでいたので、体内のナトリウム濃度が下がって、身体症状に現れたり、幻聴が聞こえたり、というのがあった。ちなみにこの幻聴であるが、言語と非言語にわけることができて、うつ病からの幻覚は言語的なもの。例えば職場で後ろ指さされて笑われていたり、ばかにされる音声が聞こえてくる、というもの。非言語では、ノイズキャンセリングのイヤホンをしているのにたびたび笑い声が聞こえたり、といった具体であった。でも水を飲んでいる一瞬、その一瞬だけは落ち着くことが出来る。不安や色んなネガティブな感情がある中でこのひと時本当にマッチのような安息を手に入れるために体に幻覚症状を起こしたり、もう何とかこの感情から逃げ出したい一心であったと思う。

 

休職延長を当時人事の責任者に伝えたのであるが、言われたのは「思ったより元気そうじゃないか」ていう話だった。私はそりゃ人と話すとき、特に会社の人とは努めて明るくするようにしてますからね…とは言えないのである。結構伝えるのも勇気が必要で、何度も電話をかけるかかけざるか、迷ってうだうだしていたのである。結局のところ、休職延長も合意が取れて、さらに休職期間が延びた。季節は夏になっていた。夏は私が一番嫌いな季節である。夏で暑くて夏バテ気味であったし、何より、社会人1年目のころちょうど不安や不眠が最高潮に達したのは、夏だった。だから夏は、嫌いだ。これは今でも変わらない。

 

今回は復職延長までのお話をしました。次回は、どういう過程で体調が良くなっていったのか。お話したいと思います。