アニメが好きなのはアニメに自己投影して自分が救われたいんだって気付いた話

私は高校生くらいからアニメが好きであった。そこから波はあるけど、アニメを見続けてきた。ちなみに私が好きなジャンルは王道の青春ラブコメ。最近では異世界転生ものが流行っていたりするけど、私は王道が好き。そして、今まで正直に言うと自分からこれが好き!って言える趣味がなかった。どういうことかというと、周りが好きだから自分も好きになったり、話題を作るために趣味にしたりして、自分という人間がよくわからないと言われたことがある。確かに思い返すと、小学校から中学校、高校と周りと同じようなことを求めらていたし、中学生くらいまではゲームが趣味と周りと同じ、高校生は2年生くらいから勉強につぎ込んでいたから休日ってあったっけ?という感じである。大学で趣味に時間が使えると思ったら、大学4年生の授業がない時期になると、時間が悠久に感じると言いだして本を読むか、1時間無心で寿司打を打つか、アニメ・YouTubeを見ているか、そういった具合だった。日々できる趣味がない。アニメも好きなものがあれば見るけど、というまだ中途半端な感じで趣味として時間を使うというところまでにはいかなかった。そんな私が周りに合わせて色々趣味らしきものを作ってきたけど、心の底から「私はこれが好き!」と言えるものがない。そこで、自分の趣味開発の一環でアニメを趣味としてやっていこうと思った。元々好きなジャンルもあるし、ここならどこか趣味にできる気がしていた。

アニメと言えば、アニメ以外にも原作のコミックや周辺グッズを集めることから始めた。これは義務感というよりはこれを始めたのが2023年中だから、今も言えるけど、好きなアニメが複数ある。そのキャラクターをアニメを見ていなくても目に入って思い出せてすこし幸せな気持ちになれるなら、それはとても良いことだろうと思った。なので、色々集めたしアニメの展示会にも行った、今度はアニメライブにも行く。そのためにアニメの復習をしたり通勤の車中はアニメライブで流れるであろうアニソンを流して予習しているのである。それ自体は確かに楽しい。だから続けられるし後悔がない。グッズは最近増えてきてしまったけど、一つ一つに良い感情があると思う。ちなみに先日友人に「もう立派なアニオタだよ」と言われてしまった。最近、アニメの社会的地位は向上していると思う。(そうあってほしい。)昔から国民的アニメは複数あったけど、アニメらしいアニメが世の中から認知されたりするのは昔のチェック柄にシャツインのオタクから徐々に層が変わって言っている証左ではないかと思う。そう思いたい。(すくなくとも私はそういう昔のオタクを脱出していると思っている!)

それで、アニメ好きで少し考えを巡らせてみた。アニメが好き、特に私はセカンドヒロインに感情を寄せる傾向にある。ちょっといい感じになるけど、最後はやっぱりメインヒロインと結ばれて切ないサブヒロイン、そういうキャラクターがそのアニメでは推しになっていたりする。なんならゲームが出ている場合ではもちろんそのサブキャラが報われるルートがあるので真っ先に攻略したりする。ふと、なんでサブキャラなのかなぁ。例えば、自分に自信が持てずに苦しんでいたけどちょっとずつ成長していって主人公に恋心を抱いてその思いは誰にもまけないよっていうサブキャラ、はたまた自分を助けてくれた主人公になんとなく好意を抱いて、それが主人公と関わる中でどんどん高まっていくけど、結ばれるのは自分じゃないってなんとなく分かっていてそれでも明るく振舞って最後まで良いキャラを演じるサブヒロイン。最近ではラノベで今までのキャラでサブというポジションの人に焦点を当てたものも登場しているようだが、サブヒロインがわかった時点で報われないのはほぼ確定しているのである。

サブヒロインと私がどこか似ている気がする。人生考えてみると、本当の場面で選ばれないということはよくあった。例えば恋愛、学生時代の恋愛事情については非常に芳しくないが、中学生の時に3年間片思いしていた人がいるけど、見事に卒業式で散った。大人になって遠方の地に住んでいる人に密かに想いを寄せていたが、その表現方法がまだ若かったこともあり、お菓子とかそういうものばかりだったが貢という形に収まってしまった。あとは便利屋として使われてしまったりしてしまった。そしてそれは終わらすことすら許されずに終わった。これが私、想いはあるけどいつも大体幸せになれない。結果として、そういう幸福を得られない。人生なんてなおさらハードゲームなのに、さらに精神疾患というハンデを負っているので、なおさらスーパーハードモードになっていて、報われない。それまでの努力とかが一度否定されてしまったから。

アニメだから、最後はサブヒロインも円満に終わっていくのが定石だと思うが、やっぱり肩入れしてしまうのはそういう自分の背景を、選ばれなかった、幸せになれなかったっていう想いを重ねているのではないかと思う。自分と似た境遇の人に想いを重ねる。アニメに自己投影していると思う。そしてゲームとかでサブヒロインが報われるモードをコンプリートすることで自分が疑似的にでも救われたいと思っているのだろう。そういう登場人物が救われる場面を見て、自分が救われたと思いたい。私はそうだ、救われたいのだ。好きなアニメのセリフに「わたしを見つけてくれてありがとう。」というセリフがあった。これもまたそうなんだと思う。私はちょっとは明るくなりつつあるけど、暗い精神疾患という病の海を彷徨っている。そこは本当は暗く、辛く、悲しく、冷たい水の中。その中から私を見つけて欲しい。見つけ出してほしい。そう本音では思っているのだ。もちろん、現実問題としてそんなこと言っててもいつまで経っても人に見つけられることなんてないから、自分から探しにいかないといけないが、それは今は休止中(執筆現在)。すごく他力本願だなって思うが、誰か、私を見つけて、救ってほしい、こんなに苦しいんだ、共感してほしい、光をさしてください…

アニメだけじゃなくてリアルでもそれをやっていた。塾で生徒を助けていくたびに、なんとなく昔の自分を自己投影して、助けていく。そうするとその瞬間は少し救われた気がする。自己投影している人が少し元気になるから、自分も少し元気になる。でも、物事はそう簡単ではなくて、何日も膝を詰めて話し合ってやっと光が差してきたりすることだってあるし、そもそも解決できないこともあるそのたびに自分がちょっとダメージを受ける。

想いを重ねる、境遇を重ねる、過去の自分を重ねる、人でそれをやるともちろん救いたいと思って行動しているからその人からは喜ばれるが、自分が摩耗していく。アニメってそういう摩耗がないから、二次元にリアルで起こる色んなことを忘れたくて没頭する。そしてまた今日もサブヒロインを応援する。だいたいいいところまでは行くんだけどなぁ。アニメが好きな人には色々な人がいるだろう、声が好きとかイラストが好きとか、でもこういう自己投影できるものとして見ている人も実はそれなりにいるのかもしれない。そうしてその目線で見ていると、気付かされることって多いと思う。青春ラブコメだとたまにいいこというじゃんってくらいだが、哲学系アニメやアニメ映画を見ていると色々考えされされる。きっと色んな人の人生観とかそういうのが詰め込まれているのだろう。ここまで来て初めてアニメの名前を出すのだが、「新世紀エヴァンゲリオン」には、哲学系アニメとしてまたこれはサブヒロインというより主人公の碇シンジ自体に自分を重ねる。境遇というか描写から読み解くものが似ている。このアニメからは学ぶことが多い。「やはり俺の青春ラブコメは間違っている」サブヒロインの由比ヶ浜結衣こそ選ばれないサブヒロイン筆頭と叫びたい。

報われない人生を今度こそは、と息巻いて日々過ごしているが、急激に何も変わらないので、まだ自己投影して疑似的に自分を救うということや境遇や感情に共感したり、はたまた、考察してみたりしながら着実にアニメライブに向けて準備をする。