大学主席で卒業したのにうつになった話。パート5

前回は、1か月半でかなり状態的に悪くなっていると書きました。今回やっとうつ病という病名が出てきます。

 

1か月半で色々なことがあり、生活はかなり崩れていた。睡眠も十分とれない、もしくは悪夢で起きる、休日も仕事のことが忘れられなくて、飲酒量も増加傾向にあり、不安感なども出てきて、果ては電車通勤だったので、この電車にぶつかればもう死ねるんじゃないか、そうしたらこの苦しさから解放されるんじゃないかって思い出した。

さすがにこのままじゃヤバいと思いだした。なんとなく、異動した地で精神科、心療内科を調べてはいたが、たいていのところは初診を取る事さえ難しい現実を知った。地方都市の精神診療はこうも揃っていないのか、と思ったほどである。(都会も似たような感じであると思うが)

上司と報告の一件があってからの、次の休み。季節は春だった。あの背筋を伸ばした誇らしい姿の私は全くその面影もなくなっていた。

私は、スマホとにらめっこしていた。このままだとかなりまずい、でも、自分の症状で本当に精神科に行っていいのだろうか。受診を迷っていたところであった。かなり生活レベルが悪化して、希死念慮が湧いてもなお、まだ、自分は軽い方じゃないかって、自分なんかがこういう病院にいっていいのだろうか。追い返されたりしないだろうか。やはり、精神科・心療内科は敷居が高いイメージもあって、受診に後ろ向きな私がいた。でも、このままじゃ何も変わらないっと思って、どこか、今日行けるところってないかな、ないよな…と思って、ひたすらに病院を探した結果、なんと、当月に新規開業したクリニックがあって、まだ枠に余裕がありそうだということを知った。となると、この病院に駆け込むしかない、と思って、勇気を出して、本当に勇気を出して、何度も電話を掛けるボダンを押したり辞めてみたりした葛藤の結果、ついに電話を掛けることができた。この電話、自分の運命を大きく変える。およそ精神科・心療内科の初診で出てこないであろうワード「今から行けますか?」このワード。それに帰った答えは「大丈夫ですよ、気を付けてお越しください。」なんて言葉を言われた。これはその後色々精神疾患を取り巻く環境を調べていくなかでかなり稀有な状況であることがわかっていく。通常初診は数か月待ちとか、そもそも枠がないから初診停止しているところもあるとわかって、あの時、大丈夫って言われた、それがどんなに幸運なことかと思った。

とは言え、病院に向かう車内では、気持ちが揺れていた。こんなんで本当に行っていいのだろうか。初めて行く診療科、ドキドキした気持ちと、何もなかったらどうしようという気持ちと、でもこの苦しさから解放されたいという思いと色々重なって、かなり複雑な気持ちであった。

そのクリニックはビルの中ほどの階に位置していて、開院したてのピカピカのところだった。問診票を書くのもそこそこに、先生に呼ばれて、色々ヒアリングされた。どういう状況なのか、何に困っているのか、など色々丁寧にヒアリングしてもらった。結果、一通り聞き終わって先生から言われたのは、「重たいことを正直に伝えると、うつ病です。しかも、発症は社会人1年目のクレーム対応をしていた時期を推定できる。なので、反復性のものであって、場合によっては長いこと付き合っていかないといけない。」「仕事は即刻休んだ方がいい。」「私が出来ることはあなたを死なせないこと。」ということであった。

まずうつ病と告げられたことに対する受け止め方であるが、それを言われて、半分ほっとして、半分そうだったのか…と空を見上げる気持ちである。今まで幾度となく、うつ病チェックリスト的なものやってきて、うつの傾向があります。って言われてきたけど、お医者さんから本当に告げられて、自分のこの辛さの正体がわかったっていう意味のほっとした感じ。それに、でも現実としてそれを受け止めないといけないから、複雑なもやもやする気持ちもあったりするのであった。

仕事についてはまだ休職なんてレベルではないと思っていたから、告げられてびっくりした。先生に「ちょっと仕事については、その決断を下せません。」って告げた。とりあえず保留。先生からは休職には医師の診断書がいるが、日付を遡らせることもできるよって言われた。

死なせいないことへの受け止めであるが、高いところや電車を見るたび希死念慮が湧くので、それを抑えないといけないのは確かにあることだと思った。確かに私は別に死後に極楽浄土に行けるなんて崇高な考えはしていないが、でも今のこの苦しみからは脱却できるんじゃないかって思っている。苦しい。辛い。時にはなんで自分がこんな辛い目に合わないといけないんだと思い、時にはもう楽になりたいと思い、こんな思いを数年重ねた結果がこの「死なせない」ということかと思うと、考えさせられる。

 

即日薬物療法が開始された。初めてのむ向精神薬、ちょっぴり怖い気持ちもあったが、こちらも先生が、「今は昔ほど向精神薬の副作用もひどいものはないから、安心して飲んでほしい。」「ただし、頭やおなかに副作用が現れる場合があるよ」とも言われていたので、ちゃんと服用してみた。そうしたら、最初はちょっと気持ち悪さが出たくらいで、その他は問題なかった。その後家に帰って、仲のよい友人に電話して打ち明けた、くらいであとは自分の頭の中で自分はうつ病なのだというのがリフレインしていた。

そして次の出勤日、上司にうつ病であるか言うのを迷った。かなり迷っていた。正直、休むレベルなのか?って思っていた。そこで前いた部署で親しくさせて頂いていた方に電話してみた。そうしたら、「それは上司に伝えたほうがいいだろう。」ということであった。ここでも結局ほかの人に背中を押してもらうしかなかったのである。今回に限って言えば、本当にどうしようかまよっていたので何とも言えないが…。

上司はその日夕方まで出張だったので、帰ってそうそう「お話があるので、お時間いいですか。」と伝えて、ミーティングルームに入った。上司に、「実は、うつ病と診断されまして。」というと、上司は悲しそうな表情になって、今後どうするのか、どうしたいのか、を聞いてきた。私は、ちょっと言われたばかりで整理が出来ていません。と伝えた。上司から翌日は休むように言われた。そしてそのままGWまで有給などを使い休むことになった。

 

次回、GWにどういう風になったのか、お話していきます。

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート4

さて、今回は前回の続き、なんだか安定したような安定していないような気持ちの中で、異動を告げられた、その先で何があった、というお話をしていこうと思います。

 

異動先は県外であった。隣の県だけど、知った人もいない、そんなところに異動することになった。この異動先は実はそれまでいた部署の上位の位置しているところで厳しい人が多く、とあることが原因でそこの所属していた人にあまりよく思われてなかった、という素地があるわけだが、すんなり行くって決めちゃったわけである。

最初に県外異動の旨だけ言われて、部署は後から決まるということであった。それで数日たって部署が決まったので告げられたのであるが、そこの上司がなんと前述した、上司宛の電話を取ったら不在で、なぜか私が怒られる羽目になった、あの電話の主である。第一印象はなぜか怒られたという感じで非常に芳しくなく、その上周りから言われたのはかなりの気分屋だから気をつけろ、という話なので非常にどんよりした気持ちで行くことになった。

 

異動日になったので異動先に行ってみると、プロジェクトが2つほど進んでいるから、それを担当してほしいこと、固定業務はないので仕事を自分で考えて作るように、と話をされた。プロジェクトの1つは前任者が走り出しまですることが決まっていた。また、上司に報連相する際はメールでよいことが告げられた、

私は当面残る1つのプロジェクトをすればいいのだが、なんと前任者が任されているはずのプロジェクトを全くしようとしてないではないか、ということに気付いてしまった。相当先輩にあたるのでそれとなく探りを入れてみたら、どうも次の異動先の仕事をしていて、全然プロジェクトのことに関心がなく、質問してもなしのつぶて、といったありさまで、「これ、大丈夫なのか…」と思ってしまった。でも、上司からやるよう言ってあるし、しばらくは触れないでおこう、触れたくない、何かあって言われると怖いけど…と思いながら、胃のしこりのようなものが残った。

数週間してだんだん勝手がわかってくるようになったが、まず上司はかなり機嫌が激しく、アンガーマネジメントが全くできないこと。前任者はプロジェクトをほったらかして、(厳密には、上司にもう委ねている、と言っていて、上司はちゃんとやるように言っていて、という食い違いがあって板挟みにあった)どっかにいってしまったし、2つのプロジェクトの期限はかなり迫っていた。

まず自分がちゃんと担当だと明言されていたプロジェクトについてだが、とある備品が足りないという問題が出てきた。私は上司に折に触れてこういう問題があって用意する必要があると叫んできたつもりだったが、結局つもりであって、上司に全然届いてなかった。上司からはかなりお叱りを受けた。「わかっていたならなぜ動かないのか。」という話であった。私、ちゃんと相談してたじゃん…。と思っていても言えないのがサラリーマンの悲しいところである。そしてそのプロジェクトは社内のかなり偉い色々な方を集めて大々的に会議を開くということであったが、かなり色々なミスをしでかした。箱は何とか用意したけど、中身がズタボロ。なんでこんなミスしているんだろう…って思っていた。

このころから、休日も仕事のことが頭をよぎる、とか、あまりね寝つきがよくないとか、不安な感じが襲ってくる、いわるる調子悪い日が続いていた。今思えば、入社当初の状況が徐々に出来上がりつつあるわけだが、その渦中にいるとなかなか気づかないものである。

 

そして、もう一つのプロジェクト、前任者が走り出しまでやるという約束だったもの。なんとこれも私に飛び火した。上司から、「まだ走り出していないのか、何やってたんだ」というお叱りを受けた。このプロジェクトも色々な部署を巻き込んでやるものだったから、早く色々決めてくれ、というものがあった。しかし、あまりよくわかっていないし、前任者からは最低限の情報しかない。そののち前任者を捕まえて色々聞いてはみたが、結局私が走り出しをしないといけなくなった。ここで問題になるのが、社内のコンセンサスを得ていないことなので、合意を取るために色々やらないといけないが、勝手がわからない。でも上司に相談しようにも機嫌が悪く、聞けない。どうしたらいいのか、よくわからない。こういう時、前の部署では色々な人に聞いていた。そこでアドバイスをもらい、いろんなことを進めた。結局自分のやることに自信がないから、背中を押してほしいと思っていた。でも今の部署は、そもそも上司と私の2人部署で、周りの人には嫌われていると思っていたから、誰にも聞けない。八方塞がりでこれはどうしたらいいのか、会社でも家でも夢の中でも考えるほどであった。

さらに追い打ちをかけるかの如く、フロア改造をした結果、なんと私と上司は1.5人の机を上司が0.9人、私が0.6人分使うという状況になってしまった。上司の期限の悪さが伝わってくる。必然的に緊張状態に追いやられてしまった。

以前心のキャパシティーをお椀に例えたわけだが、少し減っていたお椀の水が、今回の異動の色々ですでにお椀に黒い水が溜まり始めていて、その実、表面張力が張っている状態になった。その表面張力を破り、水が溢れる出来事はすぐ起こった。

とある資料を本社に報告しないといけなかったが、私がやるのか、上司がやるのかわからない状態で、おそらく上司がやるだろうと思っていたら、上司は私がやるだろうと思っていて、誰もやっていない状態になっていた。これぞメールコミュニケーションの結果か、と今だと思えるのだ…。それを本社から指摘されて、上司が、「以降の本社への報告は全て私がやります。」とメールで答えていた。ご丁寧にCCをつけて頂いて。折しもその日は在宅ワークをしていた。会社にいたらすぐ怒られるですんだのかもしれないが、私はすぐさま上司に電話した。上司は電話には出なかった。そのまま数時間がたち、さすがに上司にあんなことを言わせて平気ではないので、気が気でなかった。どんなお叱りをされるのか、緊張した状態が数時間続いた。結局上司から数時間後、私の退勤後に折り返しがかかってきて、一通り怒られて終わったのであるが、色々傷心の心、表面張力がはったお椀から水が溢れだすその一滴になるのに十分たるものになってしまった。心が、また、壊れていった。今回は急速に。この間、1か月半。自体はスピーディーに悪い方へ悪い方へ進んでいった。

 

さて、お題にしているうつ病の話がやっと次回で出てきます。次回は病院受診とうつ病診断に至るところを話していこうと思います。

 

 

 

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート3

さて、前回は生活が崩れていく様子と、異動を告げられたところまでお話をしたと思います。今回はなぜ異動になったのか、異動先でなにが起こったのか、生活はどうなったのか、という側面からお話をしていきたいと思います。

 

通常新卒の配属地は顧客対応部署で、1年ほどいることになっていたわけであるが、数か月で異動になったのには理由があった。私には上司の上司(上司②)がいて、前回丸亀に連れていってくれたのは上司の上司(上司②)である。私は、上司(上司①)には色々身の上話をしていたので、正直限界で会社を辞めようと思っているということを告げていた。それを上司(上司①)が上司の上司(上司②)に伝えて耳に入ったらしく、人事課長に「私が相当病んでいて辞めようと思っているから、部署異動を前倒ししてくれないか」という話をしてくれたらしい。人事課長もそれにオーケーを出してくれたので、かくて私の異動は相成ったわけである。この点かなり恵まれていたと思う。

 

私の異動は迅速に行われクレーム対応から解き放たれるのである。異動先の部署は管理系の仕事をしているところで、デスクワークがかなり多い部署であった。これぞ夢見た社会人生活だな、と思った。

 

では生活の方はどうなったかというと、徐々に回復していったが、クレーム対応の部署でなくなっても、劇的に改善ということはなかった。お酒は仕事に慣れる数か月間、手放すことはできなかったし、帰って飲んでないとやってられないよって思っていたし、相変わらず朝起きるのが億劫で、夜寝るとあまり睡眠の質がよくないと感じていた。

それでも、部署や仕事に慣れたら、お酒は飲まなくても平気になったから、生活面はじわりじわりと良くなっていった。でもクレーム対応していた時の傷は完全に癒えていたわけではなく、まずお客さんを徹底的に嫌っていたから対顧客業務が発生した場合には、他の人にお願いして徹底的に避けた。別にクレームでもなんでもないお客さんとの話すらしたくない、いや、できなくなっていた。顧客という言葉が私のトラウマ的体験をフラッシュバックさせた。私の頭の中では、お客さん(個人・会社問わず)=クレーム、怖い、うるさい、というイメージがこべりついてしまった、この点全然払しょくされずに、業務をしていたのである。幸いにして、対顧客業務以外も色々あったのでこんな甘えが許されていたし私の得意分野の業務はことごとく吸い上げて私の業務にしていったので、お客さんと接する必要はなかったのである。

ちなみに、社内の電話問い合わせが電話であるのだが、なんかミスをして怒られるのかなぁとか、そう思ったら、電話を取るのが怖くなっていたので、「全然電話とらないじゃないか」って指摘をされたこともある。でもその実、クレーム対応も基本は電話だったので、電話をというのを取ると喉が詰まってしまい、上手く声が出せない感覚が残ってしまった。特に困らなかったけど、最初の文字が出てこない「お疲れ様です。」なら、「お」がのどに詰まって出てこない。電話を見るとクレームと直結するから体が勝手に反応して声がでないようになってしまった。でも電話取らないといけない、と思ったりして、ふとたまたまとった電話が社内の別部署の電話でどうも上司あてだったらしい。上司は席を空けていたので、その旨伝えると、「この案件そっちの部署の管轄だけど知っているか?」って聞かれた。それは上司しか知らないことだったので、「よくわかりません。」と答えると、「どうしてお前の部署の案件を知らないんだ。よくアンテナを張っておけ」って怒られた、ということもあった。

 

ここでよく考えてみると、面接のときに言われたことを思い出した。「うちの会社クレーム多くてお客さんから怒られること多いけど大丈夫?」ってちゃんと言われていたのだ。私は入りたい一心でなんとなく当たり障りのないことを言っておいたのだが、この時ちゃんと明言されていて、就活というフィルターで完全になかったことにしていたことを強く悔いた。そもそも会社を選んだ時に、半分自分の意思、半分そうじゃない見栄や誇りって感じだったので、他に内定をもらった会社に行けばよかったとめちゃくちゃ後悔していたわけだが、会社から忠告されていたので、ある意味事項自得と言えばその通りではあるが、面接で、クレーム多いけど大丈夫って聞かれたときに、「じゃあいいです、面接辞退させてください。」なんて言えないのは分かって頂けるだろうか。(これは自己正当化)

 

さて話を戻して、生活や気持ちの面に目を向けよう。一旦、最悪な状態に落ちていったので、簡単に元気だった時の水準には戻らない。何度か心療内科、精神科に行こうかと迷った時もなんどもあった。でもこの時は、自分がそういう病院に行くことに抵抗感を覚えていたから、その扉をたたくことはなかった。その時は、こんな症状で行っていいのかなぁと思っていたし、辛いのは事実だけど、病院に行くほどかなぁと思って、何度も調べ、そのたびに何度も諦めていた。ちなみに、クレーム対応の部署にいた時は、病院に行くという考えすらわかなかった、誰の目に見ても病院に担ぎ込まれないといけなかったと思うが、選択肢がなかったので、こういう選択肢をもっておくってとても重要だと心から思ったのはまた後程の話。

 

そんなこんな病院に行こうかどうしようか、悩みながら結局日和ってしまい、行くことができないまま、なんとなく元気になったようななってなかったようなという日々が数年続いた。

 

この間も、上司に怒られたり、嫌なことがあるとストレスを強く感じたが、まぁこれは社会人によくあることとも思う。ちなみに、ある日ミスをして社内の人から総スカンをくらい、目上の人に怒られ詰め寄られ助けを求めた上司は守ってくれず、責任を私に投げたことも起こった。これは、とある年度計画を立てるときの数値算出を間違えた事によるものだが、当時の上司に数字について確認を求め承認を得ていて出していた数値が違って、計画がひっくり返ってしまったのだが、もちろん数値を算出したのは私、だから私が矢面にたってその対応をしていたが、いよいよ目上の人の怒りもピークになって詰め寄ってきた。人から詰め寄られる経験なんて初めてだった。これもなかなか怖い。そしてそれをやり過ごし、上司に助けを求めたら、お前がミスしたことなんだろ、お前が悪い、とバッサリ。私は上司にはちゃんと確認を求めたし、俺が悪いのはそうだけど、それを言われるとちょっと…となって会社のトイレで泣いた。その後同僚の人にめちゃくちゃ慰められた。

 

さて、その生活に終わりを告げるのも案外あっけなく来てしまった。あれは冬だった。寒い朝、人事課長に呼ばれていった先で告げられたのは、「県外に異動してもらいたい。できるか。」と言われた。私は、正直今の部署には割と飽きていたので、「わかりました。」と即答した。この時の私は覚悟がなかった。その回答をするということが意味することを。そこで待っている苦悩を。

 

さて、このお話はここで終わりじゃないんかいという感じであると思いますが、2つの大きい山があるイメージです。1つ目の山は終わりました。次回は2つ目の山のところを話していこうと思います。

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート2

朝。日が昇り、独特な雰囲気のある朝。

私は朝、今日はどんなクレームから始まるんだろうかと、思いながら迎えるのであった。

 

前回は、クレーム対応をする部署に行く経緯までを書きました。今回は、どうやって自分の心が壊れて行ったか書こうと思います。

 

誰もが怒られることにいい印象は思わないだろう。そう、私も怒られることにまったくいい印象がなかった。

でもピカピカの社会人として会社に入ったら、思い描いたデスクワークではなく、お客さんから怒鳴られ、詰られ、果てには人格否定される。そんなクレーム対応が待っていた。

最初の数週間はこれも勉強と耐えることはできた。

でもだんだん色んな声が重なっていく。「どうしてくれるんだ(怒)」とか、「お前のところの会社どうなってるんだ(怒)」のお怒り系、「あんたの対応、なんの解決にもなってないんだけど」のお答え求める系、「お前の姿勢が気に入らない」とか、「お前の対応は寄り添っているだけじゃねぇか」とかの人格否定系、とかいろいろクレームがあった。言われた一つ一つの言葉に傷ついていくようになっていった。特に人格否定系は結構きつかった。こういう話し方しかできないし、対応できないものはできないのである。今ではカスタマーハラスメントなんて言葉が出回っているが、私のころはまだその概念が出始めたばかりなので、当然お客さんにそういう意識はない。そもそもカスハラが浸透しても絶対カスハラしてくる人はいる。ただ、痛いのは大体の場合、会社側がお客さんにご迷惑をおかけしているのが泣き所で、そうなるとお客さんが自分で納得するまで話をする(聞く)しかないのだ。

よくこういった話はお椀にたとえられると思うが、お椀にちょっとずつ、ちょっとずつ黒い水が溜まっていくのである。日々のクレームは私の心の余裕、キャパシティー、お椀をちょっとずつ満たしていったのである。

大学をキラキラで卒業して、ここにいるんだ、という謎のアイデンティティで持ちこたえようとしていたし、当初聞いていたのは、半年でこの顧客対応をする部署から異動できると聞いていたから、なんとかそこまでは耐え忍ぼうと思っていた。

 

しかし、悪いニュースはすぐ耳に入るもので、半年で異動が1年で異動という話になってしまったのである。それを聞いた私は「これが1年も続くのか、はぁ」というため息と落胆交じりの独り言をつぶやいていた。

支えを失った私が崩れていくのは容易なものであった。次第にクレーム対応がトラウマになっていった。この前はこんなことを言われた、あの時はあんな風に怒鳴られた、次はあんな風に言われるんじゃないかって不安に思う。だから業務に向き合うことが怖くなった。クレーム対応が怖くなっていった。

周りに聞くと、「クレーム対応は慣れの問題で何を言われても平気になれるよ。」と言われたが、私はどうも納得が行かなかった。「これ重ねても全然慣れる気がしない…」とまさしく思っていた。

 

過去を振り返ってみると、毎日のように怒れていた時があった、それは中学生のころだった。別に悪いことをして怒られたのではない。学級代表になったとき、担任の先生から(おそらく期待を込めて、色々ご指導して頂いたのではあるが。なぜなら中学生の頃の私は教員になりたいと思っていたし、それを担任の先生にも伝えていたから)朝の会や帰りの会でここがダメだった、あれがよくなったと時に説き伏せられ、時に怒鳴られ、怒られまくっていた。将来そんなんで教員になれるのか、と。この日々は結構胃が痛かった。また、明日怒られるんじゃないかって思いながら布団の中で縮こまれながら、というのをしていた。それは結局卒業式まで続いたが、慣れるということはなかった。あの頃からわかっていたのだ、私は怒られることに慣れることはできない。

 

心が壊れて行くのは決定的な何かがあるわけではなくて、色々な要因が積み重なって、もうお椀でぎりぎりのところまで水が溜まっている、それが何かのきっかけで、何か水滴一つでお椀から水があふれるのだ。というのはまさしくそうだと思った。

 

そのきっかけは割とすぐ来たと思う。いわゆるチンピラ的な人と直接対応することになってしまったことだ。今までは大概が電話でのクレーム対応。直接もなくはなかったけど、嫌みを言われるくらい。それがもう手がでるのでは?っていうくらい怒鳴られ詰められまくった。要するにとても怖いかったのである。結局その場を上司がなんとか収めてくれたわけなのだが、それで完全に私の心は壊れてしまった。期間にして2か月くらいだった。日々のクレーム対応で心のお椀はすでにいっぱいになっていたところに大きな一滴が落ちてきてお椀から水があふれた。もうだめだと思った。

大学卒業後の研修で周りを巻き込み、今でいうウェイウェイやっていて輝いていた自分の姿は面影はもうそこにはなかった。

 

そう感じてしまったら、生活も、なにもかも、一気に崩れ落ちて行った。まず、朝起きるのがだんだん億劫になっていった。朝が来ると、怒られる、そんな条件反射で、朝が憂鬱になった。朝を迎えたくない、今日はどんなクレームが待っているのか、考えたくない。そう思うと朝はかなり億劫で、遅刻こそしなかったが、ぎりぎりまで布団から出られなくなった。そして日中、クレーム対応をしているとかなり心拍数が上がって上手く話せなくなっていた。そのころから自分でクレームを抑えられなくて結局上司に出てもらうことが多くなっていた。そして夜、家に帰ってから、今日はこんなことがあった、ってもう泣きながらお酒を飲んでいた。本当に涙が出てきた。そして夜、眠りが取れなくなっていた。何とか寝酒で眠りにつくものの、睡眠の質が著しく悪く、途中で起きてしまう始末。しかも夢の中でも怒られていた。全然眠れない、そんな状態でまた朝を迎える。

休日の日も、生活状況はかなり悪化していた。朝は目が覚めておきるものの、お昼まで動きたくないと布団から出ることが出来ず、昼は昼でお酒を飲んでいないとやってられなくなっていた。仕事のことがどうしても頭をよぎるから。それを打ち消すためにお酒を飲まざるを得なかった。お酒を飲めば少しは楽になったから。でも、それでもほろほろと涙がこぼれてきた。もうここまでくると何が悲しいのかもよくわからない。怒られたのが嫌だったのか、大学を主席で出たのにこんな自分でみじめだと泣いていたのか、よくわからないが、涙があふれて止まらなかった。そしてYouTubeなどをぼーっとみて夜を迎え、またお酒を飲む。そして涙を流す。

 

そんな形で生活が、仕事が、崩れて行った。もう、大学の卒業式に姿勢よく前の席に座っていた自分なんて跡形もなくなっていた。

 

それでも日々の仕事がある。だから仕事へ出かける。でもそこでクレームを受ける。心が傷つく。では、なぜ会社に行っていたかというと周りの人に恵まれたからである。周りはいい人ばかりで、休憩時間に外に行くことがよくあったので、マックとかコンビニとか、そういうところへ行って皆さんのご希望のドリンクを買ってみんなで笑いながら飲んでいた。だから、職場環境としては恵まれた方、だと思う。

 

それでも日々のクレームで傷つく。もう十分心のキャパシティーは超えていた。夜お酒を飲んでは、当時住んでいたアパートの3階から、「ここから飛び降りれば、死ねなくても、明日仕事に行かなくていいんじゃないか」って窓の外をひたすらに眺めていた。その時からうっすらとであるが、「このサッシを乗り越えるだけじゃないか、簡単だよ」「もう身をなげだしちゃいなよ」っていうささやきが頭をよぎってきた。日に日にその声が強くなっていく。そうして現実から逃げたかったのだ。苦しい。この苦しみから解放されたい。その一心だった。最後の最後にはついに眠れなくなった。全く一睡もできない。眠ろうとしても眠りにつけない。目が冴えてしまっていた。

 

もう限界だった。満身創痍だった。会社を辞めようと思った。新卒で入った会社をたった数か月で病めるなんて、ありえないことだが、実は次にアテがあり、もう辞めようと決心したその時、上司からお食事に誘われた。

 

どこに連れて行ってくれるのかなと思ったら、なんと丸亀製麺だったので、なんだかと思ってしまったが、そこで告げられたのは「今月のシフト終わったら、異動になるから。異動先はもっとデスクワークな部署でクレームとかはないよ」と告げられた。そして何か言いたいことあるんじゃないかって言われたので、「やめようと思っています。」って告げたら、「新卒で数か月で辞めるってもったいない、せっかくだから異動先を見てこい」って言われて、なんともあっけなく顧客対応の部署から去る事になった。

 

次回は、なぜ異動になったのか、ということと、異動先でどんなことが起きたか、生活の変化は?ということを書こうと思います。

 

大学主席で卒業したのにうつになった話。パート1

春の日和、寒さも収まり、桜も咲いた、まさしく春。とある国立大学の卒業式は行われた。

大学の卒業式は通常、自由席であるが、私には最前列に指定席があった。大学を主席で卒業し、表彰を受けるからだ。その時の自分はとても誇らしかった。背筋をピンと伸ばし姿勢よく大学の卒業式で成績優秀者として表彰を受ける。これほど名誉なものがあるのだろうかと思っていた。それまで勉強であまり褒められることもなかったから一層である。これで次の春から社会人になる。それで社会人も順風満帆でいい生活を送るぞ、と意気込んでいた。

しかし、私はまだ知らなかった。その先に待っているいくつもの大変さを、いくつもの地獄を、いくつもの涙がまっていることを…。

 

大学の卒業式も終わり、4月1日に入社式を行い、社会人になった。

入った会社は大きい規模の会社であるが、一般消費者から会社から幅広く携わるところであった。

大きい規模の会社であるので入社直後は集合研修が一定期間行われた。その研修で大学主席卒業と意気込んで、とんでもない勢いで周囲を巻き込み、先導し、生き生きと発表をしていた。そう輝いていたのである。

ここまではよかったのである。そうここまでは。社会人のなんの憂いも不安もなく一番輝いている時期が入社直後の研修期間というのはなんだか滑稽だが、世間を全く知らない自分が世間という荒波に揉まれる、なんてハードモードなことこの時考えもしなかった。

 

思い返すこと就活時、どこの会社を志望してどの会社に行こうかと考えていた方向性はたまたま大学で行われた会社説明会で大きく変わった。

その説明会は大学のキャンパスの大会場で行われた合同説明会形式で、元々インターンシップに参加していたこの説明会に参加する前の本命のこの企業に行きたいってところが来ていたので挨拶がてらアピールのために行ったのであった。

アピールしたい企業への挨拶もそつなく終え、なんとなく時間を持て余していた時に、たまたま入社した会社の人事の方が来ていた。目指す業種は同じところだったし、時間も余っていたので、その説明会に参加してみた。大きい会社だったし、インターンシップに参加したこともあるのだが、それ以降あまり動きがなかった企業であるので、特に選考の志望度で上位に食い込んでくるということはなかった。ただ、この説明会には誰も来ていなかったから、1対1で話を聞くことになった。当時積極的な就活生であった私は色んな質問をして目立つように見せていたから、やっぱり企業人事としても人がいなくて積極的な質問をしてくる人ということで、いい意味で人事担当者の目に留まるのであった。その場で正式な会社説明会に参加してくれませんか、言われるがまま会社説明会にしっかり参加してきた。この時はまだ志望度は高くない。ただ、そんな会社もあるよなぁ程度だった。

だが、会社の人事はちゃっかりしている、これいい人材だと思ってくれたのか、メンターをつけてくれた。メンターは就活生に使う場合は、その企業を人事の人以外から聞いたり今の就職状況を確認されたり、会社の面接などについての質問が出来たりするその会社の人事以外の職員のことだ。このメンター、実は大手企業の優秀な学生にしかつかないと思っていた。私は志望していた業種は決めていて、色んなインターンシップで活躍し企業人事から人目置かれた存在(誇張ではなく本当に)であったが、メンターを付けられるということはなかった。それは大学の位置的問題もあるし、そもそもそういう制度がない会社も多かったから。それで、そのメンターの人とあるチェーン展開している喫茶店で会社の様子や人間関係などを伺った。自分にメンターが付くなんて、って悦に浸っていた。ここから間違っているのである。

だが確実に運命を変えるのは、メンター面談が終わって数日たった後、採用担当者に呼び出されたことだ。今でも覚えている、とあるチェーン展開している喫茶店で、今の就職状況や志望度を聞かれ、突如採用担当者から、「今ここで、うちの会社を第一志望として選考辞退をしないことを受け入れてくれる代わりに優先選考に進めることができるかどうですか?」と問われた。

実はその時、元々本命だった企業は少し違うかもと、と思っていたので、その場で「はい、お願いします。」と答えた。あと、そういう二者択一を迫られると期待されてる方を選んでしまう私の不甲斐ない性分も関係しているわけだが。あと、メンターがついて悦に浸っていたのと、採用担当者がわざわざ(県をまたいで)来て、自分に直接優先選考の話をしてくれる、という優越感、当時はそんな感情から自分から口にでたこのワード、回答は私の就活の方向性を大きく変える。そして人生をも大きく変える。当時はそんなこと思いもしなかった。

そこからもまた早かった一次面接、最終面接と進み、無事に内定を勝ち取ることが出来た。ここに私の就活は終了したわけである。そのほか内定を何社かからもらったが、結局最初の約束を守って辞退した。そして、その運命を変える会社に入社するのである。

 

さて、会社のルールで、初配属は、一般消費者に接する部署になった。これはその会社に入った全員がその道をたどるので、絶対に避けられないのである。

会社を選ぶうえで大切にしていたのは、大きい企業に入る、という非常に見栄えが大事ということだったので面接は正直何を言われても、あまり受け止めず流して、その場しのぎの回答をしていた。意外となんとかなるものですんなり内定となったわけだが、その面接に今後起こる惨状のヒントがあったのだ。それに気付かなかった。目がくらんでいた。それを、とても後悔するのである。

初任配属地は一般消費者に接する仕事と書いたのだが、具体的に何をするのか。それは来客対応とクレーム対応である。来客対応では、一日に100人くらいのお客さんが来たりして、クレーム対応では、毎日起こるクレームに対処するのである。よく考えれば昔から全く打たれ強くなかった。そんな人がクレーム対応をするのである。めちゃくちゃな話ではないだろうか、この業務がある時点で気付くべきポイントだろと言いたいところもあるが、しかしその会社を選んだのは誰でもない私なのである。かくて、日々怒られ、なじられ、否定される。そんな日々が幕を開けたのである。

 

一日の始まりは顧客に対して謝ることから始まる。「大変申し訳ございません。」そう言って始まる朝。そして日中に1~2件ほど、クレーム対応をする。そしてその結果を関係各所に伝えて、対応していくのに時間が取られる。そのまま夜に入り、終業間際のクレーム対応を行うといった具合に、1日平均して4~5件ほど謝り倒すのであった。なんていい朝なんだろう。そしてなんて良い夜、終業の迎え方なんだろう。就業間際のクレームは残業確定なのである。そもそも労働時間が長い会社であったのに。

 

次回以降は自分の心がどういう風に壊れていったのかを書こうと思っています。